都会での生ゴミ処理

久々にゆっくりと予定の入っていない東京での休日です。どっぷりと「スローな仕事」を片付けることに。たとえば:

その1.去年収穫してあってまだ手づかずだった高キビを脱穀・調整(ことしのがそろそろ乾きあがるから)
その2.去年収穫してあって、まだそのままだった落花生の塩ゆで(ことしのがもう獲れちゃうから)
その3.どっさり取ってきてそのままだった韓国唐辛子を切って乾かす
その4.乾かしてあったオレガノでリンスをつくる
その5.枝ごと収穫した綿花からコットンボールをとる(半分はそのままドライフラワーに♪)

e0151091_23115096.jpgこういうことをちぶちぶ台所でやっているとものすごく生ゴミがでるのです。

田舎だとどこの家も庭や畑の片隅に大きな穴が掘ってあったり、コンポスターがおいてあって、そこに生ゴミは落ち葉と一緒に投げ込めば、匂いもしないし、気がつけば土に戻っています。大したことではないのだけど、私はそれを見るのがとても気持ちがいいのです。生活の「ゆとり」のバロメーターとでもいうんでしょうか。ちょっと変わってるとは思いますけど(笑)

都会というのは、毎日の暮らしの中からでてくる有機ごみが自然にもどるようなスペース的なゆとりも、時間的ゆとりも持ち合わせていない気がします。匂いがでれば近所迷惑だし、葉っぱや小枝を家の敷地の隅に積み上げても「汚い」とか「片付いてない」と見られちゃうし…。 そんな状況の中では、生ゴミはとりあえず自分の目の前から消すために「燃えるゴミ」として出してしまうしかない。

とはいえ、生ゴミや庭の剪定屑など、決まりといっても「燃えるゴミ」にだす、っていうのはモノの「巡り」をぶつ切りにしているようで、私にはどうも気持ち悪くて…。ということで、都会での苦肉の解決策としてウチでは生ゴミはすべて電気式の生ゴミ処理機にいきます。

「電気を使ってなんて…」と、最初は思ったんだけど、自分の生活の中からでた生ゴミが、20センチちょっと四方の四角いスペースの中で人工的とはいえ、色々と混ざり合って土に戻るプロセスを自然の「早回し」みたいにして見ているのは、なんとなく興味深い(笑)だんだんこれひとつでひとつの生態系みたいに思えてきて、水分が増えたなーと思えば古いドライフラワーとか切り刻んでいれてやったり。水分が少なくて嵩が多いかなーと思ったら野菜の生葉や、魚のアラをそのままちょっと加えてみたり。ちょこちょこ微調整しながら発酵具合を「どれどれ」と、朝覗いたりしています。

水分が抜けて茶色くなり、ある程度嵩の減った生ゴミはにおいもなくなります。こうなったらごっそり袋につめて田舎へ持って行き、畑の土にすき込みます。

でも結局、電気で生ゴミ分解して、車で田舎に運んでるんだもんなぁ(笑)ここでも都会のスローライフは矛盾がいっぱい。

それでも今日も一日の台所仕事の終わり、乾いた枝屑や野菜の切れ端、落花生のカラなど、どっさり生ゴミ処理機にいれて、下準備の終わった落花生や高キビがきちんと冷凍庫へ入ると、とりあえず都会に住みながらも生態系の一部に参加しているような気分になります。

ま、変わっているとは思いますけどね(^^
# by nicecuppatea | 2008-11-23 23:25 | もったいない | Comments(2)

スローな週末の喜び

昨夜会社から家に帰ってきた私は、ダンナによるとやたらと機嫌が悪かったらしいのです(笑)そんなつもりはなかったのですが、朝から何やかやと会議通訳で忙しかった上、風邪が抜けきらず、体力を消耗していたからかもしれません。

帰宅して、夜にピーチ(ウチの健啖ラブラドール)の散歩にダンナと出かけても(自分ではそんなつもりはないのだけど)気分が変わりきらなかったのか、私の言動は「すごくつっかかるぞ」とダンナ。そんな私に腹を立てたダンナにわたしもプチ逆ギレしたり…こんな不毛な日はお互い早く寝るに限るのです。

そして早く寝て、目覚ましの音もなく自然に目が覚めた週末の朝の喜び♪
昨日とうって変わってさわやかに朝の散歩に出かけます。やっぱり睡眠って大事ですね(^^
私はもともと時間さえ許せば、他の人なら絶対「暇だねぇー」というような、つまらないことに時間をかけたい性分。近くの公園の葉っぱの減った木を見上げながら枝の間を「鳥の巣、ないかなー」と探したり、こんどは地面をみながら「きれいな葉っぱ、落ちていないかなー」と探したり。公園の奥には大きな銀杏の木が数本あり、そばまでいくとご夫婦が私たちに背を向けて一心に銀杏を拾っていました。私たちに気がつくと、ちょっと「ライバル出現!」という緊張感(?)が背中から感じられました。なぜか銀杏拾いとかって人と張り合う雰囲気がありますね。

でも私が探しているものは誰とも競合しない「赤い葉っぱの柄」(^^こんなものを拾おうとしている人は、少なくとも東京のど真ん中のこの公園には私以外誰もいないでしょう。カエデ系の大きな落ち葉の葉柄は鮮やかな赤に染まる時期。それを集めて、しばらくぶりにちっちゃい紅葉色のバスケットを作りたい!e0151091_23282296.jpg
イギリスでバスケット編みを習ったとき、当然ながら先生が使っていた素材はウィロー(柳)でした。
でも実際、くねっと曲がる枝なりつるなら何だって使えるのです。私はハニーサックル(スイカズラ)、ライムトゥリー(西洋菩提樹)、ドッグウッド(ハナミズキ)など、色がきれいだったり、単に林の刈り込み作業で大量に手にしたツルや枝でバスケットを編んでみました。そのうちのひとつがシカモア(セイヨウカジカエデ)の葉っぱの柄でした。このシカモアという木、イギリスの森林保全活動の中ではどんどん広がるので、かなりの嫌われ者でしたが、それはどこへいっても秋にはこの葉っぱのきれいな赤い葉柄が集められるという事。私はシカモアの木を見つける度に嬉々として、「もっと長くて、もっと鮮やかな赤い柄を…」と葉っぱを拾い集めたものです。
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東京の公園には同じようなシカムアの木はなかったけど、似たような赤い柄を集めて、小さいバスケットを作ってみました。大した出来ではないけれど、無心にちっちゃい葉っぱの柄で遊べる感じがいい♪

隣のちっちゃいバスケットは以前編んだ藤ヅルの残りを割いて遊んでみたもの。いつも朝の出勤間際の時間になると「あれ~、鍵知らない?」とかやっているので、これを鍵入れに任命しよう。
# by nicecuppatea | 2008-11-22 23:38 | バスケット編み | Comments(2)

スローでない日々…

今週は、会社に各国経営トップの人々が多数来日し(色々な国で事業をやっている会社なので…)、戦略会議とか視察を毎日早い時間からやっています。会社での私の主ななりわいは会議通訳なので、こういうイベントが起こると「スロー」な生活ではちょっとなくなります。

通訳をやるのに、例えば毎日アメリカの英語(というのも随分荒っぽいくくり方ですが)を聞いていると耳の穴がその「言語のカタチ」に慣れてくるようなイメージがあります。このカタチっていうのは、この母音はこう発音される、と「耳の穴」が形状記憶してくれて形づくられるイメージ(笑)そうすると文や単語が違ってもある一定のルールのアクセントや発音は「あ、こういうことね」、とすんなり耳の穴を通り抜けて、言わんとする文の意味がかたまりとなって脳にまでとどくのです。ちょっと感覚的な言い方ですが。

これがいつも聞いている発音パターンと違う英語を突然聞くと、その形状を記憶した耳の穴にその言葉がうまくはいってこない(笑)あたかも、丸い耳の穴にサンカクのブロックを無理やり通そうとするような感じで。そうすると難しくないフツーの言葉も「アレ、今なんて?」ということになります…。通訳なんてかなりの部分気のモノでもありますから、「わからない!」と思った事実が今度は自分の心を乱し、聞けるものも聞えなくなってしまうのです。

さて、昨日は朝イチから各国や各事業のプレゼンテーションの同時通訳。普段はアメリカ人の英語を訳す事が多いのですが、昨日のスピーカーさんたちは、中国、インド、そしてトルコからの方々(^^ふだんある一定のカタチの英語に触れることが圧倒的に多い社内通訳者としては、それらの国名を聞いただけで、かなり緊張して仕事に臨むことになりました。

「準備」として何をするか、というと耳で音がなかなかつかめない時に重要な、目から入る情報ソースの事前の読み込みです。スクリーンに映し出される資料を印刷したものなど、最大限強い「押し」でプレゼン担当者から事前にもらい(時には奪い取るように…)、目を皿のようにして読み込むわけです。

通訳というのは多分に「刹那」の仕事でもあると思います。特に同時通訳の場合は、どんなに深く訳すトピックについて言葉や知識をつけても、それが限られた数秒のうちに、言葉となって口を突いてでなければ何もならない、要はいつも時間との戦い。今話していることが手元書類のどこに書いてあって、その次にどこに飛んでグラフを説明するのか…、どんなに資料を読んでも、印刷して手元においても、話者の方が話すその「一瞬」にそれがでてこなければ、何の意味もなくなってしまいます。

そうすると手元資料も、ふだんみみっちい節約を繰り返す私であっても、「読めるからプリントサイズを縮小して紙を節約」などということはまず考えない(笑)その瞬間、瞬時に紙の上の情報が目に飛び込む可能性が少しでも高い方法で自分の手元に置く資料を印刷します。ひとたび通訳を始めたら、体中が話者の発する「音」だけに集中しようとします。前に座っている、「普段はとてもいい人」が大きな咳をしたり、気を利かせた事務局の優しい方が「お水どうぞ」などと言ってくれた瞬間に、話者の言葉が聞えなくなり、その人たちに思いっきり「ムッ!」としたりしてしまうのです。

昨日、ランチの後にプレゼンをされる予定だったトルコ人のプレゼンターの方は午前の会議が終わった段階で、事前資料が何も出ていなかったので「パワーポイントを使ってお話にならないんですか」といったところ「これだよ」と100ページの資料をニコニコ見せてくれました。「企業秘密なので印刷して資料はあげられないが、そんなに難しいことは話さないから」。気が遠くなりそうになるのを必死でこらえ、「印刷したものは必ずお返しします。不慣れな言葉などがあるので、事前に資料を頂きたいのです」と食い下がり、ランチ前になんとか紙の資料をゲット。数十分のランチ休憩の間に、その100ページを印刷し、ガス欠ぎみの体になんとかサンドイッチを押し込みながら全速力で資料の上に目を走らせます。

後は野となれ山となれ。ひとたびプレゼンが始まったら、話者がヒートアップして話しのスピードが上がらないことだけを祈りつつ、ただただ全身の神経を集中して言葉についていきます。そしてそのプレゼンが終わってしまえば、次のプレゼンが控えているので、あれほど1分前まで「宝物」のように扱っていた手元資料をほっぽり投げて、次の資料に再び、全身で集中。

秒刻みに効率だけを考えてその「刹那」に集中した結果、一日の会議の終了後に残るのは、膨大な紙の資料。でももうそれは「おわったもの」。明日の会議の資料があれば、もう過去のことを大事に考えている時間と記憶力の余裕はありません。そういえば、お昼のサンドイッチ、中に何が入っているのかもどんな味だったのかも、すでに記憶にないなぁ。

…夜の会食が終わった赤坂で、街灯に照らされたイチョウの木をみたら、もう鮮やかな黄色に染まっていました。週末と週中で、こんなに目に入るものや、考え方が違うのって、なんでだろう。
# by nicecuppatea | 2008-11-20 08:57 | 会社でのこと(通訳) | Comments(6)

最近のブドウは種なしで皮ごと食べれる

今週は行かなかったけど、最近日曜夕方から夜にかけて、山梨から東京へ向かう中央高速の上り線の渋滞がめっきり少なくなりました。初夏から始まった「フルーツ王国」山梨のモモとブドウの季節が今年も終りを向かえたことを意味します。温泉も紅葉もいいけど、やはり山梨はモモとブドウの季節が一番賑わいます。

ところでそれらの果物の、新品種の導入が近年ものすごい勢いで進んでいるように見えます。特にブドウが!

ブドウと言えば、昔は種なしのデラウェア、大きく濃紺のつぶの巨峰、グリーンのマスカット、そして山梨にはワイン種として歴史の古い「甲州」がありました。

ところが最近のブドウはもっとずっと細分化していて、見た目もバラエティに富んでいます。「ロザリオ」「ピッテロ」「マニキュアフィンガー」など、外国っぽい名前のブドウも増えました。そういった新しい種類のブドウの「高額化」も進んでいるような気がします。

こうした外国系の名前のブドウはある意味、それまでの日本人の「大粒のブドウ」の概念を大きく変えた気がします。つまり、かつての巨峰やマスカットと違って「種」がなく、そして皮ごと食べられるのです。ウチの旦那などば初めて西洋種の、種もなく皮ごと食べられるブドウに出会い「ブドウを見る目が変わった」とまで言いました(^^以来、毎年シーズンになると大量にブドウを消費するのが我が家のならわしとなりました。きっとこういう家庭は、ウチのほかにも少なからずあるのではないでしょうか。

知り合いのブドウ農家の人に聞いたところ、こういう西洋種のブドウは皮が薄く、裂果しやすいので、在来種よりも雨に弱いのだそう。また、「種なし」ということは房と実をつなぐ芯がなくなるため、大きくなるにつれ実の重みで粒が房から落ちてしまいやすいとか。こうして考えるとブドウって果物は、生産農家にとってはだんだん手間のかかる果物になってきているんでしょうかね。手間がかかるだけ、値段が高くなるのもうなづけます。

そうなると気になるのは、在来種たちはどうしているんだろう、ということ…。

ブドウ屋さんの棚を見ても種なし巨峰は1キロ1500円、ロザリオなどは1キロ1700円などとなっている中、「甲州」は近くのブドウ畑の無人販売所で「一皿(何房も入っている)300円」とかで売られているのを見ました(^^

もうひとつデラウェアより大きく、巨峰より小さく、大きな種の入った「ベリーA」という、古くからある黒いブドウがあります。これなんかシーズン中に行きつけの国道沿いのガソリンスタンドに入ったら「ご自由にどうぞ」という張り紙がされて段ボールにどっさり盛られていました。きっと自宅のベリーAの木にたわわにブドウが実ったものの、もはや市場で売れるものではなくなってしまったのかも。

私の畑の周りの家には、シーズンになると「ブドウ狩り」の看板を掲げている本格的ブドウ農家もたくさんありますが、ブドウ農家でない家でも、庭のかなりの部分にブドウ棚で日差しよけがしてある家がたくさんあります。そういうブドウはたいてい甲州。

田舎の家に滞在していると、時々近所のおばあさんが、音も立てずにヌッとウチの窓から、庭でとれた甲州を差し入れてくれて、結局都会モノでこういう田舎のコミュニケーションに慣れていない私たちをビクっとさせてくれます(笑)

「のどが渇いたから、いくつか房を切ってみただよ」。よかったらどうぞ…というご親切で、大変ありがたいのだが、これが申し訳ない話、なかなかウチで減らない…。

「実好き」の私は、どちらかというと原種に近い果樹に常に魅かれてきました。「果物は甘いばっかりじゃね」などと言って。ところが私も気がつけば「甘くて結構人工的」な果物の魔術にとりつかれてしまったのかも。

頂いた甲州と、ガスタンからどっさりもらってきたタダのベリーAは、それぞれの皮の色をそのまま生かしたジャムにしました。e0151091_22442496.jpg
















房から一粒づつ実をとるとき、ベリーAの実を一粒口の中に放り込むと、分厚い皮と実の間から、甘み、というよりは強い「葡萄の香り」が口いっぱいに広がりました。
# by nicecuppatea | 2008-11-17 22:46 | おいしい実 | Comments(2)

ミカンが育つコミュニティガーデン!


私のキッチン・ガーデンの周りにもモモやブドウの放置畑が年々増えています。たいていは農家の高齢化と後継者不足などでこれ以上畑の面倒を見ることができず、果樹などはそこに残されたまま、畑は放置されてしまうようです。

放置畑って見ただけでなんだかどっと悲しい気持ちになる光景です。そこはもともと野生の場所ではなく、かつては人がその土地なり樹木なりと共生をしていた形跡、そしてそれが荒廃した形跡が両方残っているからです。

今日は縁あって、小田原市でそんな放置ミカン園をコミュニティガーデンとして再生する活動をしている「オレンジプロジェクト」の方々にそのガーデンを見せて頂く機会を得ました。

昔、人は少しでもこの急な山腹に平地を作り、なんとか果樹を植えようと、苦労して山を切り開き石垣を盛っては幅の狭い段々畑を作っていったのでしょう。それぞれの段々畑を結ぶ幅の狭い石垣の階段は、今朝からの雨に濡れて滑りやすく、ひとたび滑ったら下まで一気に転げ落ちそうな急勾配です。そんな急勾配に張り付くように広がっている畑での、ただでさえ重労働な農作業は、年を取っていけばどれほど大変なものだったでしょう。
e0151091_2033047.jpg放置農園の問題に取り組むため、小田原市がNPOや企業に対して農園の再生化の協力を呼びかけ、ここに「さまざまな人がかかわりながら、かつて人と自然が共存していた場所を、農作業を通して再生していく」アグロフォレストリーというコンセプトで「みかんの育つコミュニティガーデン」を作る、オレンジプロジェクトが誕生したのだそうです。

3年前に始まったこの取り組みでは趣旨に賛同したボランティアの方々が、この崖っぷちのミカン畑(だったところ)の草を刈り、藪を切り込みながら、ツルに覆われた現存のミカンの木を救出し、その他の果樹や農作物を植え付け、また「そこにあるものをつかって人が集うスペースを作ろう!」とベンチやパーゴラもしつらえられて、徐々に「居心地のよさ」を増しているように見えました。

肝心のミカンは…というと、これが甘さと酸味が絶妙の絶品!!農薬やワックスを使っていないので、とったその場で外皮もむかずにリンゴのように丸かじりもできます。e0151091_2034515.jpg
買ったミカンっていつまでもやわらかく、すぐに外皮がむけますよね。それは皮に「ワックス」がぬってあって皮から水分の蒸発を防いでいるから、って知っていましたか?(私は知りませんでした)だから買って何日も経っても、皮がすぐむけるくらい柔らかいんですって。そうしないと一般市場に流通するみかんは「買ったらすぐ皮が硬くなっちゃった」ということになってしまうから、だそうです。

かたやノンワックスのこのミカンは、収穫して数日すると皮が乾燥して硬くなり、むきづらくなります。でも、昨年「エコプロダクツ展」に出店していて、1ネット100円で販売されていたオレンジプロジェクトさんのこの無農薬みかんを手にした私は、外側の皮まで、硬くなるまで乾かして七味にいれたり、陳皮にしてお風呂にいれたり、あますことなく活用させてもらいました。こんな貴重なミカンが100円なんて!

去年はこれらのミカンはエコプロダクツ展などで販売するほか、ボランティアの方々の中で消費したのだそう。それでも全部を使いきることはできなかったのだとか。

おそらく、私みたいに「こういうミカン、ほしい」と言う人はたくさんいるでしょう。そして、それを売ったり有効に使いたい、と願う人たちもいるはずです。ただ、その両方を突拍子もないお金や手間をかけずに結びつける「手段」がない。私だって自分のキッチンガーデンで毎週ありあまるほどとれるミニトマト、「素人が作ったからおいしくないかもしれないけど、完全無農薬。こんなものがいる人いないかなぁ…」と毎回考えます。東京の自宅の車庫の前に「無人八百屋」でも開店しようかと思ったくらいです。でも一つ一つ細かいところまで考えていくと、どうもうまい案ではない。

安全で、人にも自然にも優しい形で作られた、多くの人が心の中ではほしいと思っているけれど「そういう品物の入手は無理よね」となんだか諦めているようなこういう食物が、正当に評価されて、ほしいと思う人の手に届くような社会にならないものかと思います。そのためには消費する私たちが「有機がいい」といいながら「いびつなものや虫つきのものは買わない」というような矛盾に気づいて、農家の人たちに理不尽でない要求を伝えていくことが必要なのでは…と、お土産に頂いた袋いっぱいのミカンを家でほおばりながら、また考えたのでした。

ところで今日は、1年前の今日まで一緒に今の会社で働いていた環境部署のメンバーたちとの「再会遠足」でした。
e0151091_2036588.jpg大切な仲間たちにはわが畑で先週収穫した和棉「会津」のドライフラワー(と唐辛子)と、ミニトマトをお土産に。
包装は、この間家に届いた書籍小包に「中詰め」としてつかわれていた茶色いわら半紙(^^

普通であれば無礼千万でしょうが、きっとこのメンバーになら、大丈夫(笑)
# by nicecuppatea | 2008-11-16 20:40 | おいしい実 | Comments(6)

スローライフへの道はまだ遠い…

どこで見たか忘れましたが、「日々の食生活」を考えたとき、「自分の家のキッチンの窓から見える範囲のものを食べて暮らすのが一番健康で幸せ」というのを読んだことがあります。

要はどうやって育ったか分かっていて、自分の住んでいる場所の気候に合っているものが体に良いしおいしい、というようなことなんでしょう。

もし、家に隣接する畑で野菜を作りながら、毎日食べる分だけ朝、畑から採ってこれるような「正真正銘スローライフ」生活なら、それを実現できるかもしれませんね。

かたや東京と田舎を週末ごとにあくせく往復する私の「スローライフになりたい生活」では、そんな美しい現実はありません(^^

日曜日の夜田舎を車で離れる時に、翌週末に畑に戻ってくるまでの間の食生活を想像し、前広かつ結構計画づくで、かなりの量の野菜を効率的に車に積み込み、東京までどっさり持って帰ってくる必要があります(といってもこの「効率的積み込み」は私ではなくダンナの仕事♪)

野菜は古いものから使いきらないといけないから、週末までに使い切れなかった野菜はそのまま再び車で田舎まで持っていき、週末に使い切ることになります。気がつけば料理されることなく田舎と東京を行ったり来たりする野菜がでてきたりして「ねえ、これ先週も車に載ってなかった?」と旦那から問い詰められる羽目に(^^;エコな暮らしを目指す裏側にはムジュンがいっぱいです(笑)

「こんなものまで東京へ持って帰るの?」の例のひとつがこれ。
e0151091_1353941.jpg今年初めて球根を買って植えてみたサフラン、ホームセンターで10個で400円くらいでした。畑で植えてみたところ花がたくさんつきました。

なんの偶然か、20年も前に死んだ祖母が植えたと思しきサフランまで近くから芽を出していっしょに咲いていました。どうやら春先、畑の土の「天地返し」をしたら、今まで日の目を見なかった球根が地表近くに現れて芽を出したらしいのです。

今週末は畑には行かないので「もしそのままにしておいたら、来週満開のサフランから大事なめしべが収穫できない!」とまた、みみっちい考えが頭をもたげ、先週は花の咲いているサフランの球根をわざわざ堀あげて東京まで連れて帰ってきました…(サフランは土がなくても花が咲く植物だというし。)e0151091_13551642.jpg
これだけのめしべ、東京の●武のデパ地下のスパイス売り場で買ったら何千円もするんですから!

「コスト削減を常に考えましょう」という会社の教えがこんなとこにまで浸透してるのか…?


でもきれいな花が味気ない東京で咲いてくれるのが何より。
# by nicecuppatea | 2008-11-15 14:00 | もったいない | Comments(4)

さよならQE2

おととい、イギリスのネットニュースのサイトを見ていたら、世界の豪華客船のシンボルとして40年以上君臨してきたクィーン・エリザベス2世号(QE2)が最後の航海にでた、と伝えていました。

QE2の母港はイギリス南部のサウザンプトン港。あのタイタニック号の母港でもあったところです。この航海からQE2が帰ってくることはなく、19日間の航行を終えて到着した中東ドバイで今後はホテルとして利用されるそうです。隣町のポーツマスで3年半を過ごした私には少なからずも感慨深いニュースでした。

私がQE2に思いを馳せるのは、船自体に対する思い出というよりは、船を見た時の周りの状況に対する思い出といえるかもしれません。

私がQE2の姿を見るのは、たいていサウザンプトンの港から数キロ離れたディブデンという、港へ出入りする船の、外海へ出るための通り道(水道)に面した地区でした。サウザンプトン港の利用拡大に伴う港の拡張工事をしたら、その周りに飛来するシギ・チドリなどの「渡り鳥」の生態にどれほど影響が出るか、「環境影響評価」というのをやっているグループの一員として冬に飛来する海鳥の調査をしていた時です。

シギやチドリは波打ち際でえさを捕る習性があるので、明け方潮が満ちて来るに従って岸辺に近づいてきます。そこで、暗いうちに(トリが見ていないうちに…)浜に網をしかけて、その後は明るくなって鳥がそこまでやって来るのを茂みの影に隠れて(トリに見つからないように…)じっと待つのです(^^;

暗いうちに浜辺に網をしかけたら、その後は浜から少しはなれた藪など物影にじっと隠れて明るくなり、鳥が舞い降りてきて網の前でゴカイなどついばんでくれるのを待つのみ。ちなみに冬鳥の調査だったのでこの作業をするのは冬の1月とか2月の明け方です。南部といえども1月のイギリスの明け方の海辺は、半端なく寒いっっっ!のです。

魔法瓶にいれたココアなどを飲みながら(でもトイレがないのでほどほどに)寒さを紛らわしつつただただ海を見ていると、サウザンプトン・ウォーターと言われる目の前の水路みたいなところを巨大な星の山のように見える船が通って行きます。外海でその船が小さくなるまで見送る…というようなロマンチックな場所ではなく、何てことのない工業地帯の水路ではありましたが、右から左へ、巨体に似合わぬ静けさで目の前を堂々と通り過ぎていく船をずーーっと眺めていました。

ちなみに、1月の朝の6時にありったけの防寒具を着て砂浜でひたすらトリが降り立つのを待っていた…と言うとさすがのイギリス人にも「もの好きだねぇ」と言われたものです(一応イギリス人のグループの中で働いていたんですけどね)。…そして冬のイギリスってのはかなりの確率でその時間に雨が降り、強い風が吹いている…なんてこともあるのです。自分でも「あたし、なんでこんなことしてるんだろ…?」と思ったことが一度ならずありました。

それでもそこでみたQE2の大きく静かな姿への畏敬の念と、ただひたすらトリが降りてくるのを待つ…という一見、とても日常の生活のペースからかけ離れた行動の思い出があいまって、なんとも他に比較できるもののない、ある意味何にも汚されない私だけのQE2の思い出を作ってくれているような気がしたりします。

「あぁ、もうサウザンプトンにQE2はいないんだなぁ」と、東京での仕事の合間にデスクでこっそりYahooのニュースをチェックして、誰にも説明できない郷愁にひたっておりました。
あっといけない、仕事、仕事…。
# by nicecuppatea | 2008-11-14 07:29 | イギリスでのこと(環境保全) | Comments(2)

それでも私はどの昆虫にも寛大になれるか?

私が野菜を作っている「キッチン・ガーデン」とは別に、敷地の中には私にはよく価値がわかりませんが、それなりの枝ぶりで時を経た松の木が植えられており、その下には池があって、コイなどがいます。昔、祖父母が生きていた頃は、ハタケをキッチン・ガーデンと呼ぶことはなく、ガーデンと言えばこちらの池のある庭のことでした。時は経ち、私は「実のなる木」や「食べれるもの」のあるキッチン・ガーデンばかりに目がいって、あまりその「本当の庭」に細かく目をやることはありません。

それでも、部屋の中から池の端に植えてあるムラサキシキブの木を何気なく見ただけですぐに目につくほどこの虫は大きかったんです!写真を載せたい気持ちが山々なのですが、それをみたら、もうこのサイトを見てくれない人もでるのでは…と思うほどそれは大きな「毛虫」だったので、ここは写真を載せることは差し控えたいと思います(^^

大きさにして約10センチ、太さ1.5センチくらいでしょうか。黄緑色に黄色と茶色の縦じまがはいって、「おしり」のところにはトゲみたいにみえるギザギザのついた立派な黄色いシッポが。。。。最初に見つけた母が悲鳴をあげ、「イヤ~、とって!!」といいますが、こんな大きいものをとってどうやって殺せっていうんでしょう。ハタケでヨトウムシを踏み潰すのとはわけが違います。あとで図鑑でしらべたら、クロメンガタスズメ(ガ)の幼虫とわかりました。成虫は背中に「面型」(人の顔みたいの)のような模様があることからその名のついた、鳥のヒナほどのそれはそれは堂々たるガになるようです。(だからスズメ(雀)ガっていうんですよね)

そこでふと、考えます。私は子供の頃から父の影響で昆虫好きで、特に蝶が好きでした。夏休みに伊豆あたりに出かけて、虫取りアミをもって外へ出て、ひとりでモンキアゲハを網の中に捕らえた時は、心臓が興奮でドキドキしたものです。蝶を触るのも、まったく平気。大きければ大きいほどわくわくしたものです。

なのに、「ガ」と思っただけで「イヤー!」と思っちゃう。昔「チョウ」と「ガ」って生態学的に決定的に違いがあるわけではないとどこかで読んだ気がします。片方が夜行性でハラがぶっとい、というだけで、特段毒があるとか人に害を与えるてこともないのに、なぜここまで蝶と差別されて気持ち悪がられるようになったんでしょうね。畑の野菜を食べちゃう食欲の旺盛さでもキアゲハ(蝶)の幼虫は負けていないのに…。人の先入観って強力ですよね。

「これ一匹いたって庭は坊主にされないんだし、せっかくここまで大きくなったんだから、そのままにしておこうよ。だいたい、これをどうやって殺せっていうの。」という私の主張に母も納得した様子。でも傍にいってよくよくみたら、同じ木の根元に同じ大きな幼虫があと2つもいた・・・・「ガが気持ち悪いと思うのなんて先入観じゃん!」と理屈では思っても、ちょっと背筋が「ぞわぁ・・・」としました。ま、見なかったことにして(笑)もちろん、母にも内緒。矛盾しまくりの私の昆虫愛護です(^^
# by nicecuppatea | 2008-11-13 19:50 | 昆虫&鳥 | Comments(5)

山の宝さがし

週末は結局、とてもバスケットを編む、というような余裕はなく畑仕事に追われましたが、「そろそろ山の方にいってみたら秋だから、何かおもしろいものが見つかるかも!」となんとなく思いつき、買い物に車を出した後近くの山の中を少し歩いてみました。私の言う「おもしろいもの」とは、漠然としていますが、かわいい実のついたツルだとか、そんなものです(笑)

キッチンガーデン(というか畑)自体は盆地(ほぼ桃畑と住宅地)のど真ん中にあって、周りには山も雑木林もないので、そういうところには「行こう!」と思って車でいかないと行けません。

甲府盆地の端にあたるここらの山は、それほど高い山でもなく、なだらかな山肌には私が子供の頃は頂上近くまでぶどう棚が続いていたものです。春になると子供だった私でもひとりで自転車にのって山へ入っていけて、わらびとりができるあぜ道がたくさんあって、東京住まいの自分にとって子供心にとても楽しい「自然」の場所でした。

数年前そこが開発されて温泉施設と「フルーツ公園」ができました。甲府盆地全景を見渡しながら正面に富士山の頂上が見える場所の温泉ということで、最近は雑誌にも紹介されるほどの人気。そのあおりか、わが畑のそばの「ほうとうや」なども、土日に駐車場に止まっているのは殆ど県外ナンバーの車です。

人が集まってきてくれる、ということは何よりこの地区の人たちが望んでいることでしょうし、峠の温泉もそりゃ、気持ちがいいと思う。ただ、私としては舗装道路に人工的に植えつけられた果樹園よりも、ブドウ畑の間の舗装もしていない道を自転車を押してあがりながらわらびとりをした、ああいう場所がなくなってしまうのは、少し寂しい。最近はさらにその山の温泉の「奥」まで車でいかないと、そういう雑木林には行き着けなくなりました。

…ということで、スーパーの帰りに温泉を通り過ぎて山の奥へ。そこまでいくとまわりには一面「放置畑」が広がります。うっそうと生い茂ったツルが棚を押しつぶし、地面からは草が生え、ジャングルのような様相を示していた畑は「ちょっと見」では何の木かもわかりませんでしたが、よくよく見るとそれはキウイ畑でした。
e0151091_2321799.jpgおそらく放置された時はキウイを作っていたのでしょうが、その前はこの棚は間違いなくぶどう棚だったでしょう。ぶどうは手がかかるからキウイに変えて、それでも誰も面倒見る人がいなくて結局放置されて・・・などと想像してしまう。
ぶどうの木は放置されるとほとんど枯れてしまうけれど、放置されたキウイ畑のキウイのツルは、人通りもなくなった歩道にまでツルを伸ばし、びっしりと小さい実をつけていました。たくましいものです。

そばには大きなスズメバチの巣まで。どれほどここに人が入ってきていないのでしょう。
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「この畑、ほしいなぁ…」とつぶやく私に、ダンナは戦々恐々(笑)
# by nicecuppatea | 2008-11-12 07:46 | 里と野山 | Comments(2)

八百屋に職替え?

来週は、所用でキッチンガーデンには来ないので、「その間に初霜が降りるかも…」という心配もあいまって、今週の収穫はそこらの八百屋さんもびっくりするほどの量になりました。
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朝から畑でご飯も忘れるほどに動き続け、ちっともスローライフじゃありません。ダンナは「たった一週間来ないだけなのに…気負いすぎじゃないの?」その通りかも(笑)それでも最後の力を振り絞っている、ナス、ピーマン、しし唐などの夏野菜たちと、間引きしないと込み合い始めた青梗菜、出張でアメリカに行った時スーパーで種を買って植えてみた赤白ツートンカラーの大根みたいの、赤ちゃんの頭ほどになってきた聖護院など秋の野菜、それにもうかなり収穫をせずにほってあった落花生などを収穫。東京で友達に配る計画や、漬物にトライすることなどを念頭に大根を引き抜きましたが、果たしてこれらの野菜、本当に車に乗り切るんだろうか・・・。

畑の近所を散歩していると、どこの庭の柿の木もたわわに実をつけています。そろそろ庭の「百匁柿」を収穫して干し柿にする時期。このあたりで干し柿にする柿は「甲州百匁」ともいわれる土着の種類らしいのですが、百匁(375g)にもなるところからその名がついたそう。とにかくずっしりと大きい柿ですが、そのままだと渋柿です。
e0151091_23154547.jpgこれを長いことそのままおくとジュクジュクになって、ものすごく甘くなるらしい。私はあまり好きじゃないから食べないけれど、うちの祖母もふくめて「熟し柿」が好きだ、と言う人はけっこう年配の方に多いようです。


昨日は母が竹の物干し竿の先を二つに割った専用の「柿とり竿」を使って、高い柿の木から約100個の百匁柿を収穫。槍で天を突くごとく、竿を高く突き上げて竿の割れ目に柿の実の柄を奥まで押し込み、竿を回して柄をもぎ取ります。「押し込み」があまいと、重い柿は竿から下へ落ちてしまうことに。そこには我が家のエコ犬「ピーチ」が待ち受けています(^^;)多少柔らかくなったものなどはすでに甘いからなのか、渋柿でもかまわないのか、とにかく全て食っちゃう!柿をゲットするとくわえて逃げるので追いかけましたが、一歩及ばず・・・。
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今年は柿の熟し具合が10日少し、早いようです。干し柿は柿の皮をむいて軒に吊るして作るのですが、気温が低くて乾燥し冷たい風が吹いていると、軒下に吊るした柿は徐々に水分を飛ばされてだんだんあめ色に変わり、あめ色になった柿は取り込んだ後にワラの中で更に保存すると糖が白い粉のようにふいてきて、年が明ける頃には真っ白になります。時間がおいしてくしてくれる干し柿は究極のスローフードの一つかもしれません。手間隙かかるものだからか、最近では地元の農協などでは1個200円くらいで売っていたりする高級品。

今年は柿が早くに熟してしまったことで、まだ寒くならないうちに干し柿をつくらないといけなくなりました。これ以上時間をおいてしまうと、柿が柔らかくなりすぎて、吊るした時に、ぼたぼたと果実がくずれて下に落ちてしまうのです。だから多少暖かくてもつくり時は、変えられない。これで干した後も気温が低くならないと、色が黒くなったり、カビが生えたりして美しい干し柿はできません。きっと例年より暖かい日が続くと、果物はそれまでのようにゆっくり熟すのではなく、早くに熟れてしまうからなのでしょう。

「今年は柿が早かった」と、気がつけばもう数年同じことを言っているような気がします。このまま、世間で言われているような「温暖化」が進むと、山梨では真っ白い干し柿は作れなくなるのかも・・・。
# by nicecuppatea | 2008-11-11 06:13 | おいしい実 | Comments(4)